LOGIN王都を出て三日目の朝、シャーロットを乗せた馬車は、ついに目的地である|辺境《へんきょう》の町、ローゼンブルクに到着した。
ドウドウドウ!
御者が叫び、車輪が石畳に触れる音が、次第にゆっくりとなっていく。長い旅の終わりを告げる、その優しい音に、シャーロットは胸の奥で何かが解けていくのを感じた。
「お嬢様、着きましたよ」
御者の声に、シャーロットは深く息を吸い込んだ。新しい空気。新しい町。新しい人生の始まり。
期待と不安が入り混じった気持ちを抱えながら、震える手で馬車の扉を開ける。
そして――――。
息を呑んだ。
目の前に広がる光景は、王都の華やかさとは全く違う、けれど心を掴んで離さない美しさに満ちていた。
石畳の道は朝露に濡れて優しく光っている。道の両側に並ぶ|赤煉瓦《あかれんが》の家々は、一つ一つが違う表情を持ち、まるで長い物語を抱えているかのよう。窓辺には色とりどりの花が飾られ、朝の微風に揺れている。
町の中心にある噴水は、水晶のような水しぶきを上げ、虹を作り出していた。
そして何より――空が、広い。
王都では高い建物に遮られていた空が、ここでは端から端まで見渡せる。雲がゆったりと流れ、鳥たちが自由に舞っている。
「なんて素敵な町……」
思わず呟いた声は、感動に震えていた。これが、自分が選んだ新しい故郷。誰に強制されたわけでもない、自分の意思で選んだ場所。
「ローゼンブルクは良い町ですよ」
荷物を下ろしながら、御者が温かく笑った。
「人も温かいし、飯も美味い。お嬢様もきっと気に入りますよ」
「ええ、もう気に入ったわ」
シャーロットは心の底から微笑んだ。この瞬間、確信した。ここが、自分の居場所になると。ここで、新しい物語を紡いでいくのだと。
御者に心からの礼を言って別れ、シャーロットは期待に胸を膨らませながら町を歩き始める。
メインストリートは、朝の活気に満ちていた。
パン屋からは、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂ってくる。肉屋の店先では、主人が威勢よく客を呼び込んでいた。八百屋には、朝採れたばかりの野菜が山と積まれ、露に濡れてきらきらと輝いている。
(いいわ、とてもいいわ。こんな町でカフェを開けるなんて、夢のよう)
十年間、ただ王都で処刑におびえ、必死に活路を追い求めていた日々。でも、これからは違う。自分の店で、自分の料理を、笑顔で待ってくれるお客様に振る舞うのだ。
と、その時――――。
「あら、見ない顔ね」
穏やかな声に振り向くと、そこには人の良さそうな初老の女性が立っていた。
真っ白な髪を綺麗にまとめ、小花模様のエプロンをつけている。顔に刻まれた皺の一つ一つが、優しい笑い皺で、この人が幸せな人生を送ってきたことを物語っていた。
「はじめまして。私、シャーロットです。王都から来まして……」
「まあ、王都から! それはそれは遠いところから……」
女性の瞳が、驚きと共に温かさを増す。
「私はマルタよ。この先で小さな雑貨屋をやってるの」
マルタは、シャーロットを慈愛に満ちた目で見つめた。まるで、遠くから来た旅人を心配する母親のように。
「お嬢さん、一人旅? 危なくなかった?」
その気遣いに、シャーロットは胸が熱くなった。初対面なのに、こんなに心配してくれる。これが、この町の温かさなのだろうか。
「ええ、でも無事に着きました。実は、この町でお店を開きたいと思っているんです」
「えっ!? お店を?」
マルタの目が、好奇心でキラキラと輝いた。
「ええ、カフェを。美味しい料理と飲み物を出す、小さなお店を……」
「カフェ……ねえ」
マルタは顎に手を当て、何かを思案するような表情を浮かべた。そして次の瞬間、ぱっと笑顔になった。
「それなら、ちょうどいい物件を知ってるわ。ついてらっしゃい」
「え? でも、お忙しいのでは……?」
「いいのいいの。新しい住人は大歓迎よ。それにーー」
マルタは悪戯っぽくウインクした。
「この町にカフェができたら、私も嬉しいもの」
有無を言わさぬ調子で歩き始めたマルタの背中を、シャーロットは慌てて追いかける。でも、その慌ただしさの中にも、温かい幸せが満ちていた。
「……ついて来な」 案内された先で、シャーロットは息を呑んだ。そこは、まさにトマトの楽園だった。 背丈近くまで伸びた茎に、大小様々なトマトが実っている。真っ赤に熟したもの、まだ青いもの、そして見たこともない黄色やオレンジ色のトマトまで。プチトマトは房なりに実り、大玉トマトは掌に余るほどの大きさに育っている。 独特の青臭い香りが、辺りに満ちていた。それは、シャーロットにとっては懐かしく、愛おしい香りだった。「素晴らしい……」 思わず感嘆の声が漏れる。キラキラと目を輝かせながら、シャーロットはトマトたちを見て回る。「これだけあれば、オムライスもトマトソースも作り放題!」「待ちな」 ガンツの低い声が、シャーロットの夢想をさえぎった。 振り返ると、老人は腕を組んで難しい顔をしている。「確かにわしはトマトを作っとる。二十年以上もな。だが……」 ガンツの視線が、愛情と諦めの入り混じったものに変わる。「町に出荷しても『毒々しい』『酸っぱくて青臭い』と誰も買わん。最初は『いつか分かってもらえる』と思っとったが……」 老人の肩が、わずかに落ちた。「自分で食うだけのために作るのも馬鹿馬鹿しくてな。そろそろ止めようと思っとったんじゃ。結構育てるの大変なんだわ、これが」 二十年の苦労と孤独が、その言葉に滲んでいた。「いやいや、トマトは最高に美味しいんです! たくさん買いますから、ぜひ作り続けてください!」 シャーロットは身を乗り出した。 しかし――――。「じゃが、お嬢ちゃんが買っても、お客が食べなかったらゴミになるだけなんだぞ?」 ガンツは冷徹な視線を投げかける。「だっ、大丈夫です! トマトの美味しさを私がみんなに紹介します!」 シャーロットは両手のこぶしをグッと握りブンと振った。 その熱意に、ガンツの硬い表情が
とぼとぼと歩いていると、小さな花屋の前で、ふと足が止まった。 店先には色とりどりの花々が、鮮やかに並んでいる。|向日葵《ひまわり》が太陽を追いかけるように顔を上げ、|薔薇《ばら》が朝露を纏って輝き、小さな|勿忘草《わすれなぐさ》が可憐に微笑んでいる。 その花々の中で、シャーロットの視線が一点に釘付けになった。 真っ赤な宝石のような実がいくつも実っている鉢植え――――。「こっ、これは……!?」 震える手で鉢植えに近づく。鼻を近づけると漂う、懐かしい青臭い香り――――。 朝日を受けて、まるでルビーのように輝くその姿に、シャーロットの心臓が高鳴った。「プチトマト!?」 その瞬間、まるで宝物を見つけた子供のように重かったカゴも忘れ、弾むような足取りで店の中に飛び込む。「こっ、この鉢植え、どこで手に入れたんですか?」 カウンターで花の手入れをしていた女主人が、シャーロットの勢いに目を丸くする。「ああ、それ?」 女主人は苦笑いを浮かべながら、エプロンで手を拭いた。四十代半ばだろうか、日に焼けた頬に笑い皺が刻まれた、人の良さそうな女性だ。「郊外のガンツじいさんが作ってる……トマトだったかしら? 変わった植物よ。『観賞用にどうだ』って持ってきたけど……」 女主人は肩をすくめる。「赤い実が毒々しいって、誰も買わないのよね。正直、私も処分に困ってたところよ」「でも、これ……食べられるんです! とっても美味しいんです!」 シャーロットの言葉に、女主人の顔色が変わった。「食べる!? あんた、この赤い実を? 毒があるんじゃないの?」「い、いえ、大丈夫です! 本当に美味しいんです! 甘酸っぱくて、瑞々しくて……」 シャーロットは必死に説明するが、女主人の表情は半信半疑のままだ。でも、その真剣な眼差しに何かを感じたのか、しばらく考え込ん
開店準備も順調に進み、あっという間に一週間が流れていった――――。 朝の|爽《さわ》やかな光が、磨き上げたガラス窓から店内に降り注ぐ。 シャーロットは、何度も磨いて艶が出てきた|欅《けやき》のカウンターに、そっと手を置いた。木の温もりが、掌に優しく伝わってくる。(ここが、私の新しい居場所――――) 深呼吸をして、改装が進む店内をゆっくりと見渡す。 一週間前は埃と蜘蛛の巣に覆われていた壁には、今、蚤の市で一目惚れした温かみのあるタペストリーが飾られている。|向日葵《ひまわり》の黄金色と小鳥の優しい茶色。一針一針丁寧に刺繍された作品は、まるで永遠の夏を閉じ込めたかのような明るさを店内にもたらしていた。「さて、このカーテンは合うかしら……」 シャーロットは脚立に登り、窓際に薄い水色のレースカーテンを取り付ける。朝の微風がさっそく布地を揺らし、まるで湖面の|漣《さざなみ》のような優しい影を床に落とした。「うん! いい感じ!」 テーブルの上には、この一週間で少しずつ集めた宝物のような食器たちが、出番を待つように並んでいる。 クリーム色の地に小さな苺が踊るように描かれた皿は、見ているだけで幸せな気持ちになる。持ち手が小鳥の形をしたティーカップは、まるで手の中で小鳥を包み込むような優しさ。銀のスプーンに彫られた四つ葉のクローバーは、使う人に小さな幸運を運んでくれそうだ。 どれも、マルタが「あんたの店にぴったりよ」と紹介してくれた、町の陶芸家たちの心のこもった作品だった。「お客様が、これで紅茶を飲んだら、きっと笑顔になるわ」 シャーロットは、一番お気に入りの小鳥のカップを手に取り、まるで生きているかのようにそっと撫でる。 振り返れば、厨房も見違えるようになっていた。 かつてのパン屋の名残である大きな|竈《かまど》は綺麗に掃除され、新しい命を吹き込まれるのを待っている。磨き上げた銅鍋が、まるで夕日のような輝きを放ちながらフックに掛けられていた。 窓辺の棚には、ガラスの小瓶がずらりと並ぶ。ローズマリー、タイム、オレガノ、バジル……乾燥ハーブたちが、まるで植物標本のように美しく収まっている。 新しく設置した黒板には、白いチョークで夢が描かれていた。 『本日のスープ』、『ふわふわパンケーキ』、『魔法のシチュー』――――。 そして、一番上に、まるで王
角を二つ曲がり、メインストリートから少し入った静かな通りで、マルタは立ち止まった。「ここよ」 マルタが指差した先で、シャーロットは息を呑んだ。 二階建てのクリーム色の建物が朝の陽光の中、静かにたたずんでいたのだ。 正面には可愛いアーチ型の大きな窓が三つ並んでいて、かつては町の人々で賑わっていたであろう温もりが、今も残っているような気がした。 入口は重厚な|橡《とち》の木の扉で、色ガラスで小さな花模様の小窓があり、二階には白い木製の鎧戸がついた窓が四つ。一番右端の窓の下には小さなバルコニーがあり、そこだけ濃い緑の蔦が優雅に絡まっている。 しっかりとした灰色の石造りの土台は、何十年もこの町の風雪に耐えてきた風格があった。「前はパン屋だったんだけどね。店主が年で引退して、もう半年も空き家なの」 マルタの声には、一抹の寂しさが混じる。「素敵……」 シャーロットは、まるで恋に落ちたように建物を見つめた。 頭の中で、既に夢が形を成し始めている。窓際には、陽だまりのような温かいテーブル席を。入口には、手書きの可愛い看板を。二階の窓からは、ハーブの鉢植えを吊るして……。「中も見る? 大家は私の古い友人でね、鍵を預かって……」「ぜひ!」 かぶせてくるようなシャーロットの即答に、マルタは優しく微笑んだ。 重い木の扉を開けると、埃の舞う光の筋が現れた。でも、その埃っぽさも、シャーロットには素敵な物語の始まりの予感に思える。 中は予想以上に広い。床は年季の入った木製で、歩くたびに優しい音を立てる。厨房も、かつてのパン屋の設備がしっかりと残っていて、少し手を加えれば十分使えそうだ。「裏庭もあるのよ」 マルタに案内されて裏口から出ると、小さいけれど陽当たりの良い庭が広がっていた。 シャーロットは、そこに広がる可能性を見た。ローズマリー、タイム、バジル……新鮮なハーブを摘んで、す
王都を出て三日目の朝、シャーロットを乗せた馬車は、ついに目的地である|辺境《へんきょう》の町、ローゼンブルクに到着した。 ドウドウドウ! 御者が叫び、車輪が石畳に触れる音が、次第にゆっくりとなっていく。長い旅の終わりを告げる、その優しい音に、シャーロットは胸の奥で何かが解けていくのを感じた。「お嬢様、着きましたよ」 御者の声に、シャーロットは深く息を吸い込んだ。新しい空気。新しい町。新しい人生の始まり。 期待と不安が入り混じった気持ちを抱えながら、震える手で馬車の扉を開ける。 そして――――。 息を呑んだ。 目の前に広がる光景は、王都の華やかさとは全く違う、けれど心を掴んで離さない美しさに満ちていた。 石畳の道は朝露に濡れて優しく光っている。道の両側に並ぶ|赤煉瓦《あかれんが》の家々は、一つ一つが違う表情を持ち、まるで長い物語を抱えているかのよう。窓辺には色とりどりの花が飾られ、朝の微風に揺れている。 町の中心にある噴水は、水晶のような水しぶきを上げ、虹を作り出していた。 そして何より――空が、広い。 王都では高い建物に遮られていた空が、ここでは端から端まで見渡せる。雲がゆったりと流れ、鳥たちが自由に舞っている。「なんて素敵な町……」 思わず呟いた声は、感動に震えていた。これが、自分が選んだ新しい故郷。誰に強制されたわけでもない、自分の意思で選んだ場所。「ローゼンブルクは良い町ですよ」 荷物を下ろしながら、御者が温かく笑った。「人も温かいし、飯も美味い。お嬢様もきっと気に入りますよ」「ええ、もう気に入ったわ」 シャーロットは心の底から微笑んだ。この瞬間、確信した。ここが、自分の居場所になると。ここで、新しい物語を紡いでいくのだと。 御者に心からの礼を言って別れ、シャーロットは期待に胸を膨らませながら町を歩き始める。 メインストリートは、朝の活気に満ちていた。 パン屋からは、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂ってくる。肉屋の店先では、主人が威勢よく客を呼び込んでいた。八百屋には、朝採れたばかりの野菜が山と積まれ、露に濡れてきらきらと輝いている。(いいわ、とてもいいわ。こんな町でカフェを開けるなんて、夢のよう) 十年間、ただ王都で処刑におびえ、必死に活路を追い求めていた日々。でも、これからは違う。自分の店で、自分の料理を
|辺境《へんきょう》への道のりは長い。揺れる馬車の中で、シャーロットは過去を思い返していた。 前世の記憶が蘇ったのは八歳の時。高熱にうなされ、生死の境を彷徨った末に思い出したのは、平凡なOLとしての人生と、『聖女と五つの恋』というゲームの内容だった。(まさか自分が悪役令嬢に転生してるなんて……しかも、最後は処刑される運命だなんて) 最初は絶望した。だが、シャーロットには武器があった。前世の知識――特に、基本的な衛生観念と科学の知識だ。 王都の不衛生な環境を見て、彼女は決意した。解決策を知っている以上人々の役に立とうと。 しかし、シャーロットは決して表に出ないように気を配る。「古い書庫で見つけた文献に書いてあった」と嘘をつき、手柄は全て他人に譲った。(だって、目立ったら悪役令嬢として目をつけられるもの。地味に、目立たず、でも確実に) シャーロットの最大の功績は、やはり抗生物質の開発だった。 思い出すだけで、背筋が寒くなる。 十五歳の冬、王都で|猩紅熱《しょうこうねつ》が流行した。子供たちが次々と倒れ、既存の薬では太刀打ちできない。シャーロットは決意した。前世の知識にあったペニシリンを作ると。 問題は材料だった。青カビ――正確にはペニシリウム属の特定の菌株が必要だが、どれが正しいものか、見た目だけでは判断できない。 シャーロットは公爵家の地下室を改造し、秘密の実験室を作る。そして、ありとあらゆる青カビを集めては、培養と抽出を繰り返した。 夜中、皆が寝静まった後。シャーロットは一人、地下室に降りる。|蝋燭《ろうそく》の明かりだけを頼りに、危険な実験を続けた。 何度も失敗した。カビの胞子を吸い込んで倒れそうになったことも、抽出液で手を荒らしたことも数知れない。それでも諦めなかった。 そして、ついに――――。「できた……」 震える手で持ち上げた小瓶の中には、透明な液体が入っていた。動物実験で効果を確認し、ごく少量を自分でも試した。前世の記憶通りの効果だった。







